
第一章 文明開化と「新しい足」
いま、浅草の街を人力車で走っていると、100年以上前の車輪の音がどこかで重なる瞬間がある。
文明開化の時代、初めてこの車輪が街を走ったとき、人々は何を見ていたのだろうか。
人力車が登場した時代背景
明治元年(1868)、江戸幕府が倒れ、新しい政府が「文明開化」を掲げた。
西洋の技術と文化が雪崩のように流れ込み、人々は洋服を着て、ガス灯の下を歩き、後に鉄道の汽笛に胸を高鳴らせることになる。
その変化のただ中、1870年、人力車が誕生する。(諸説あり)
東京都が和泉要助ら3名に製造と営業の許可したこの乗り物は、庶民がはじめて「自分の足で都市を横断すること」を可能にした。
江戸の街での移動は、これまで徒歩か駕籠だった。駕籠は閉ざされた空間に身を委ねる”運ばれる”移動であり、権威や身分を象徴する道具でもあった。
しかし人力車は、開かれた視界と軽やかな車輪を持ち、誰もが都市の風景を感じながら移動できる”走る風景”を作り出した。
そして、特権階級だけでなく、大衆層にも開かれたのだ。
それまで「人を乗せる」のは権威の象徴の面が大きかったが、人力車は初めて”誰でも人を運べる”時代を開いた。
それは、近代日本における最初の「サービス労働」の誕生でもあった。
まさに近代の息吹そのものだった。
この”新しい足”の登場は、文学にも早くから現れる。
この時代を描いた文学
- 「五重塔」幸田露伴 (1891)
- 「にごりえ」樋口一葉 (1895)
- 「風流線」泉鏡花 (1908)
- 「雁」森鴎外 (1911)
幸田露伴の「五重塔」(1891)では、舞台となる谷中の町の中に、車が通り過ぎる音が描かれる。
「ざあっと通る車の音、遠くで人の呼ぶ声、下町の空気に、文明のにおいがまじっていた。」
(幸田露伴 『五重塔』)
露伴にとっての人力車は、ただの便利な移動手段ではなく、
“江戸から東京へと変わりゆく街の呼吸”を伝える存在だった。
樋口一葉の「にごりえ」(1895)では、街を行き交う車の描写が、女性の自由な行動や都市の華やぎと重ねられる。
「夜の街は人力車の灯、ちらほらと動くばかりにて、行き交う人もまれなり。」
(樋口一葉 『にごりえ』)
その灯りは、都市の孤独と同時に、文明開化の光をも象徴している。
車の行き交う音の中で、女性が自らの生を見つめるーーそれは、近代における”自我の目覚め”そのものだった。
泉鏡花の「風流線」(1908)では、文明の光が幻想の中に滲む。
「町の灯は人力車の影をつくり、霧の中に人の形を曖昧にした。」
(泉鏡花『風流線』)
ガス灯が街を照らすとき、その足元に生まれた影を見つめたのが鏡花である。
彼の描く人力車は、文明の“速度”よりも“静けさ”を象徴している。
それは、進歩の中でなお失われなかった“情緒の祈り”であり、明治が過ぎ去ろうとする瞬間の“光の余韻”だった。
森鴎外の「雁」(1911)では、車夫という職業が近代都市における新しい階層として登場し、主人公の心理や社会の動きを映す装置となる。
「岡田は毎日、車を雇って本郷から上野の方へ出た。雨の日には車夫が蓑を着て走る。」
(森鴎外 『雁』)
この何気ない一文の背後には、近代都市の秩序がある。
知識人と労働者、乗る者と引く者。
文明開化は、人々の移動を自由にしたが、その自由の中に新しい「上下関係」も生み出した。
1898年には日本に初めて自動車が入ってきたが、まだそれは“文明の幻影”に過ぎなかった。
鷗外が『雁』(1911)を書いた頃、東京の街を走るのは、相変わらず人の足と腕で動く車だった。
文明の脚音は確かに近づいていたが、
――まだその音は、人力車の車輪のリズムだったのである。
文学が見た「速度と孤独」「光と影」
文学者たちは、人力車を通して、文明開化の「速度」と「孤独」を描こうとした。
車輪が速く回るほど、風景は遠のき、人は小さく見える。
それは、進歩の代償でもあった。
「車は駆ける、我は止まる。止まる身に風の痛さよ。」
(一葉「にごりえ」草稿より)
この一行には、文明の風を浴びながら立ち尽くす人間の姿が凝縮されている。
人力車とは、単なる乗り物ではなく、近代という時間そのものを運ぶ装置だったのだ。
やがて電車や馬車が登場し、人力車は表舞台から退くことになる。
しかしその短い栄光の時代に、人力車は確かに「文明開化の顔」として文学に刻まれた。
作家たちは、その車輪の音に、新しい時代の鼓動を聞いていたのである。
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